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感謝とそれから……

 前回エントリーに上げた共同声明だけど、ハムニダ薫さん村野瀬玲奈さんの協力を得て、韓国語版フランス語版が加わりました。
 賛同署名も本日(2/28)21:30現在で57名を数え、声明文の方に記載されている24名と合わせて81名となりました。こうやってエントリー書いている以外には何にもしてない私が言うのも何ですが、ご協力、ご賛同ありがとうございます。

 そしてApemanさんとKaetzchenさんのこちらでのやりとりについて少し思うところを。
もともとはKaetzchenさんのこちらのエントリーにあった、Keatzchenさんのお祖父さまに関する記述についてのApemanさんからの指摘に端を発している。
 経緯については、Apemanさんのところのコメント欄を読んでいただければいいのだが、なぜApemanさんがKaetzchenさんの主張を容れないかということについて説明したい。それは、否定論者と対峙するには「手続き」の正しさを堅持することが絶対に必要だからだ。

 なぜ否定論がダメなのか、実は政府の見解に反しているからとか、歴史家が否定しているから、というのは誤りではないがそれがすべてではない。例えばこちらでも言及されているし、私も以前こんなエントリーを書いたことがあるのだが、彼らは歴史学の正しい手続きを踏んでいないのだ。結論ではなくプロセスがそもそも不正なわけ。

 歴史学というのは突き詰めて言えば、先人の残した史料(記録された文書や、記憶をもとにした証言)をもとに、その時、その場所で、何が起きたのかを追求する学問だと思う。だけど、人間は機械じゃないから、記録にしろ記憶にしろ、不確実さを完全に無くすことは出来ない。だから、どんな史料であっても史料批判というプロセスは避けて通れない。

 だが、否定論者たちには、まず「虐殺があったことを否定する」という目的が先にあるため、まともな史料批判は行なわれなかったり、ひどい場合には資料を改ざんすることさえやってのける。否定論が批判されるのは、こういった手続きの不誠実さがあるからなんだ。

 だから、彼らを批判するこちら側としては、手続きの正しさを守ることは絶対条件なんだ。もし、これを守らずに、虐殺に肯定的な史料であれば何でも採用するようになってしまえば、否定論者と変わらない。単なるプロパガンダ合戦となってしまう。そして実はそれは否定論者の思う壷である。どっちもどっちと思われてしまってはまずいのである。
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