スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

科学とニセ科学

 こちらのエントリーでのやり取りの中で、過去と向き合わず反省しない日本人の例が上がっているサイトとして青狐さんの「クッキーと紅茶と」を紹介したのだが、それを読んだ上でこのようなコメントをもらってしまい、頭を抱えてしまった。
シロウトの「南京大虐殺はなかった派」と「南京大虐殺は絶対あった派」はたいてい、お互いの論理の矛盾点をあら捜しして、「南京大虐殺があった(なかった)なんていっている連中はここがおかしい。だから大虐殺はなかた(あった)」といっている連中がほとんどです。

 だが、あまり事情を知らない人間にとってはこういう認識は珍しくないのだろう(さすがに青狐さんのページを読んだ上でこう認識されては困ってしまうのだが)。否定論に立つわけではないが肯定論もうさんくさいと考えている人は多いのではないだろうか。

 しかし、そもそも否定論と肯定論というのは同列に並べられるようなものではないのだ。
 まず一つの理由としては現在まともな歴史学者で否定論を唱えている人はいないということだ。科学の世界で”絶対”ということはないのだが、少なくともちょっとやそっとではひっくり返せないくらいの確かさはあると考えた方がいい。
 とは言え、通説に反対すること自体は問題はない。正しい手続きで行われた反証であればむしろ歓迎されるだろう。科学というのはそうやって進歩していくものなのだから。実は南京虐殺についてもそのような反証はおこなわれたことがある。その結果は虐殺を否定するものではなかった。(偕行社による調査。こちらの加登川幸太郎氏のところを参照)

 だが、現在否定論者によって行われる"反論"はとても正しい手続きとは言えない。現在代表的な否定論者としては東中野修道氏という人がいるが、この人の手続きのいい加減さは、こちらのページで解説されている。このページのオーナであるゆうさんの評価を引用してみよう。
ところが東中野氏のこの本は、捻じ曲げ引用、勝手な解釈、対立データの無視、一方的な記述―「禁止事項」のオンパレードでした。いやはや、ここまでいいかげんな本だったとは・・・。


 科学の世界に”絶対”は無い、と書いたが、このようなやり方で提示されたものはすでに科学とは言えない。「義経はモンゴルに渡ってジンギスカンになった」とか「大昔の太平洋にはムー大陸があった」とかいうニセ科学とほとんど同列のものだ。

 それらのトンデモ説の違いがあるとしたら、「あった」という主張ではなく「なかった」という主張であるとう点かもしれない。その立場から「無いことを証明するのは悪魔の証明である」という口実が使われる。立証責任を肯定論側に求めようとするんだ。だがこの口実に惑わされてはいけない。すでに通説とされているものがある以上、それに対する反証を行うべきなのは否定側なのだ。反証が科学的とは呼べないというのはすでに述べた通り。
 また、ネット上での否定論者のやり口については先にあげた青狐さんのページの他に、Apemanさんのこちらのページにも例がある。

 歴史に関するニセ科学ということであれば、こちらの本も参考までに上げておく。ここで取り上げられているのはホロコースト否定論だけど、否定論者の手法の多くは南京虐殺の否定論にも使われていることがわかるだろう。
なぜ人はニセ科学を信じるのか II

 そんなわけで、南京大虐殺は中国のねつ造である、なんてのはトンデモに属するニセ科学であり、そんなものを信じているのであれば、「歴史にきちんと向きあわず、反省していない」と言われてしまってもしかたない、と私は思うのである。
 
スポンサーサイト

Comment

Post comment

Secret

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。