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復讐するは我にあり

 これがキリスト教の言葉で、”我”というのが神様のことだと知ったのはいつだったかな。そんなに昔のことじゃなかったような気がする。

 この言葉通りに解釈するなら、キリスト教では人間の手による復讐を認めていないことになる。復讐は神の仕事なんだ。では、なぜ人間は復讐に手を染めてはいけない、という考えにたどりついたんだろう。私はクリスチャンではないので、以下に書くことは信仰からきた答えではないということはことわっておく。(突っ込みどころがあったら遠慮なく突っ込んでください)
 
 まず、何か自分がひどい目にあわされたとして、その相手に対して”復讐したい”と考えてしまうのは止められないのではないだろうか? 自分の身に当てはめてみても何度かあったし。そういう意味でこの感情は”自然”なものだと言える。だが、この感情にそのまま従っていたら復讐されたものが逆に復讐したものに恨みを抱き、再度復讐を企てるという”憎悪の連鎖”が生まれてしまう。それを断ち切るために復讐の念は神に預けて神の裁きにまかせる、ということにしたのだろうか。
 この考えの通りなら、つまりこういうことになる。神という絶対者を復讐するものとされるものの間に置いて、復讐されたものの恨みが直接復讐者に向かわないようにする。だが、キリスト教の性格からしてこれは違和感がある。この考え方は権力者のものだ。”神”の部分を”神のごとく振る舞うもの”(例えば国家)に置き換えてもこの理屈は通る。つまり権力者は人間の自然な感情としての”復讐の念”を使って神のごとく振る舞うことが出来る。もともと被支配者の宗教として生まれたキリスト教が、こんな考え方をするだろうか?

 ところで、誰かを恨み続けることは結構つらい。つらいのは分かっていても、恨むことをやめることが出来ない、というのがやっかいなところでもある。もしかすると、恨みや憎しみを持ち続けること、それを復讐という形ではらすことは、復讐者自身にとってもつらいことなのだから、というのが理由なんじゃないか、とふと思ったりした。復讐の念を持ってしまうことはしかたないけれど、それは自分の中で全部しょいこむのではなく私に預けなさい、神様はそんなことを言いたかったのかもしれない。
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