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武蔵野開拓史 その2

 武蔵野の農家の人たちが苦労しながらも耕作を続けていたのは、やはり近くに江戸という大量消費地があったからというのが大きいでしょう。
 時代が下り、吉宗公の時代になると、新田開発が奨励されるようになりました。江戸の人口もだいぶ増え、近郊農家には食料供給地としての役割が求められたのです。新田開発によって年貢の増収を図るという意図もありました。武蔵野にもこの時期に多くの人が入植しています。
 新しく耕作地を作るに当たって貧弱な土壌はやはり問題になりました。先行して開拓していった農家は、下肥や油粕、干鰯、あるいは、草を刈って作った堆肥などを土に入れて、土壌の改善を行っていました。ただ、自家製の堆肥はともかく、それ以外の肥料にはお金がかかります。(下肥はもとは人間を含む動物の排泄物ですから、ただでもいいような気がしますが、上質の肥料になるため、江戸では高値で流通する商品でした)
 新規開拓者は文字どおりベンチャーですから、資金はなるべく節約するに越したことはありません。そこで、防風林として育てた林は堆肥を取る為の林ともなっていきます。
 林が育ち木の量が増えてくると、今度は木そのものが現金獲得の手段となってきます。燃料としての用途です。近場に大量消費地としての都市があるのですから、計画的に採取していけば、永続的な現金収入が見込めます。そりゃ木々の世話にも身が入ることでしょう。もちろん、回復できないほど切り出してしまえば自分たちが困るのですから、そんな真似はしません。

 こうして、武蔵野は徐々に木々に覆われるようになっていったのです。

つづく
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