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川開きと花火大会

 花火大会というと、日本の夏の風物詩になってますね。私なんかは、夏も始めのころ、というか夏の始まりを告げるイベントに感じます。おそらく、これは今の隅田川花火大会の原形である両国川開きの花火大会の影響だと思われます。
 その両国川開きですが、始まったのは享保18年(1733年)、前年に流行った疫病の死者の慰霊と、悪霊退散を祈ってのことでした。開催を命じたのは(しょっちゅう名前を出しているような気がしますが)八代将軍吉宗公でした。花見に花火大会ですから歴代将軍の中でも人気が高いのもうなずける気がしますね(笑)。川開きは旧暦5月28日ですから、まさに夏の始まりを告げるイベントでした。
 このときまでは、川で船遊びをしている人たちから注文を受けて演じていたのですが、川開きに集まってくる客に対する宣伝広告として、両岸の小料理屋などが資金を出しあって開催するようになりました。実際には、この日だけではなく、7月28日までの間、スポンサーがつけば毎夜でも上がっていたそうです。
 この両国の花火大会は途中何度か中断する時期があったものの、戦後の1961年まで続けられました。そして、交通事情の悪化、河川の汚染などを理由に廃止となるのですが、住民たちの強い要望を受けて1978年、隅田川花火大会として復活し、今に至ります。
 今は毎日どこかで必ず上がっているんじゃないかと思うくらい多くの花火大会がありますが、江戸時代や明治時代くらいまでルーツをさかのぼれる大会は神への奉納という形をとることが多かったようです。

 やがて明治維新を迎えたあと、日本の花火に大きな進歩が訪れます。それについては次のエントリーで。 

 つづく。
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花火の出現と日本伝来

 まきこさんのこの記事のコメントで花火の話になったので、ちょっと花火の歴史を調べてみました。
 花火の元となる火薬は200年ごろ中国で発明されました。宋代には爆竹やネズミ花火のような形で遊ばれるようになっていたようです。観賞用の花火の原形は火薬がヨーロッパに渡った後、14世紀のイタリアで始まったと言われています。この後、花火はヨーロッパ中に広まり、17世紀には花火の学校も作られました。ヨーロッパでは花火は王侯貴族の遊びとして広まっていきました。
 火薬が日本に入ってきたのは意外と遅く、ポルトガルから鉄砲と一緒に入ってきたそうです。時は戦国、火薬を扱う技術は日本中に広まっていきました。しかし、戦国時代の間は花火なんて悠長な遊びはしていられなかったらしく、花火が姿を現すのは戦国時代も終わりになってからでした。これは、火薬の原料の一つである硝石が最初は日本では産出できず、輸入品だったことも影響しているのではないかと思います。日本で初めて花火を見たのは徳川家康と言われていましたが、最近、それより早く伊達政宗が見たと言う記録も見つかったそうです。このころの花火は今のような打ち上げ式ではなく手で持ってやるものでした。今でも手筒花火というのが残っています
 江戸時代に入り、世の中が平和になると、戦国時代に沢山いた火薬の専門家たちの技術は戦争の為ではなく、花火という遊びに使われるようになりました。もともとは、狼煙や火矢の技術を転用したものだったといいます。また、現在のおもちゃ花火の原形も作られ、庶民の間で人気を得ました。あまりにも流行ったので、火事の多かった江戸では何度か禁止令が出ています。
 今では世界一となった日本の花火の歴史はこうして始まったのでした。

つづく

お師匠さまと筆子

 寺子屋では先生のことはお師匠さま、生徒のことは筆子、寺子などと呼んでいました。師匠になるのに、特に資格は必要なかったので、さまざまな人が師匠として教育に当たっていました。寺子屋の語源は僧侶が寺で読み書きを教えたことから来ていますし、神官、山伏なども師匠となっていました。江戸では武士が教えることが多かったのですが、これも公的な仕事としてではなく、私的なものです。農村では、名主、庄屋などが師匠になることもありました。都市部以外では、他に稼業を持つ人が副業としてやっていることが多く、無償、あるいはわずかな謝礼で教えていたようです。現金収入の少ない農家などでは、現金の代わりに農作物で謝礼をしていたところもあります。
 教員免許などありませんから、幕末期に大量に増えた寺子屋の中にはあまり質の良くない師匠もいたようです。とはいえ、多くの師匠は筆子たちに慕われていました。師匠が亡くなると、筆子たちがあつまって謝恩の記念碑を建てたりしてます。これは筆子塚とか筆子碑などと呼ばれ、全国いたるところにあります。試しに筆子塚で検索してみてください。ほんとにたくさんありますから。

多様性と普遍性

 寺子屋に関しては、公的な制度は何もなかったため、教育内容はそれぞれのお師匠さまたちに任されていました。しかし、初等教育がきちんと機能するためには、教育内容の普遍性も必要になります。江戸で教えていることと大阪で教えていることが全く異なっていたら、話になりません。
 普遍性を保つためには、この時点ですでに民間レベルでかなり整備されていた出版・流通網が役に立っています。寺子屋の教科書は前述したように多くの種類がありますが、内容についてはある程度の共通性があります。読み書きに関しては仮名手本を終えてからは「往来物」と呼ばれる手紙文のやりとりを元にした教科書が使われることが多かったようです。これは「商売往来」「百姓往来」といったように職業別に良く使われる文章を集めたもの、「江戸往来」「東海道往来」といった地域のことを中心にまとめたものなどが出版されていました。
 また、儒教的な道徳訓話をあつめた教科書もありました。中で変わり種は吉宗公(良く出てきますね(笑))の命により編纂された「六諭衍義大意」という道徳の教科書でしょう。政府によって編纂されたものが変わり種というのも凄いですが。
 算術の教科書となると、「塵劫記」という江戸時代を通じてベストセラーとなったすぐれた教科書があります。数の位取りや四則演算から、金利計算、面積や体積の求め方などを実例を使って体系的に説明したもので、現代人でも特に専門職に就くということでなければ、この教科書に書かれた内容を理解できれば、ほぼ不自由なく日常生活を送れるであろう、というものになっています。
 「塵劫記」は本家以外に多くの海賊版が出版されています。教える内容が数学という普遍的なものですから、内容が似通ったものになることは避けられなかったのかもしれません。
 江戸に多かった武士が副業として教えているような手習い(武士階級なので寺子屋という言葉はあまり好まれなかったみたいです)だと、「千字文」「唐詩選」といった中国のテキストが好まれました。中国文化は当時の知識階級の教養でした。これらの教養を身につけるために、武士の師匠の元に通う庶民の子もいたということでしょう。
 このように、各種の教科書がある程度の量で出版されて出回ることは、教育内容を一定のレベルに保つことに役立ちました。また同時に、これだけのバリエーションの中から選択することで、多様性を持つことができたのです。

寺子屋と小学校

 Jabberwockさんのこことか、gegengaさんのここ、アキラさんのここを読んで、ちょっと書きたくなりました。

 日本での公権力による庶民階級に対する初等教育は明治に入ってすぐに始められました。しかし、良く知られているように、初等教育そのものはそれよりもはるかに早くから始まっています。寺子屋ってやつですね(江戸では手習いと呼んでいました)。幕末の時点で、全国に約16000の寺子屋があったといいます。就学率は幕末で大体25%くらい、都市部では7割を超えていたみたいです。
 寺子屋の面白いところは、これが公権力とは全く関係なく、庶民の手によって作られ運用されていたところでしょう。読み書きそろばんというように、基本的な読み書きの能力と算術を中心に教育がなされていました。このころも生きて行くために最低限必要な項目としてはこれくらいだったんですね。国が決めたカリキュラムなんてものは存在しないので、教育はそれぞれの子供の習熟度なり商売なり親の都合なりを考えて個別に行われていました。教科書の種類も多く、現在残っているものだけで約7000種あるそうです。いつ教育を始めていつ終えるか、というのも完全に個人の都合に任されていました。
 おそらく、当時としては世界でも最高水準の初等教育環境にあったと思われますが、明治になってから、政府から「その師匠であるもの大概は流落無頼の徒であって自分の生計を立てるにも不能。素より教育の何足るかを知らないもの」などと批判されて、多くの県で廃止されています。(東京など、逆に保護して私立小学校となったところや、公立学校に教員を引き継いだところもあります)
 近代国家として、国を一つにまとめるためには、寺子屋のような形ではなく、小学校のような全国一律の教育が必要だったのでしょう。しかし、初等教育が生きて行くために最低限必要な事を学ぶ、ということを目的にするのであれば、必ずしも公権力は必要ないように思えます。

桜と杉

 今年はいつまでも寒かったですが、あと、一、二週間もすれば東京でも桜が見られるようになるでしょう。花見の名所というと、上野山や、墨堤、飛鳥山、小金井堤などがありますが、上野山以外の場所に桜を植えたのは、やはり吉宗公でした。
 上野山はもともとお寺の境内だったので、花見でどんちゃん騒ぎなんてことはできなかったのです。酒も飲めなかったし。そこで、庶民が気軽に花見が出来るようにと、江戸城から桜の苗木をこれらの場所に移して桜の名所を作ったのです。さすがは暴れん坊将軍(^^)
 飛鳥山には吉宗公自ら花見に出かけたそうですから、本当は自分が騒ぎたかったのかもしれません。さすがにこの時代にこんな理由で植林した例は他になさそうです。

 春と言えば、もうひとつ杉の木も話題に上がりますね。こちらは花粉症に悩まされる今の人たちにすれば、あまりうれしくないでしょうが、江戸時代は建材としての需要があり、やはり植林事業が起きています。杉並区の名前の由来がまさにこのあたりにあった杉並木にあるそうなので、この辺も産地だったんでしょう。杉林は木の畑みたいな感覚だったのかもしれません。火事も多かったから、需要もたくさんあったでしょうしね。

武蔵野開拓史 その3

 このエントリーのコメント欄でちょっと触れましたが、日本人は上水道は作ったけれど下水道は作らなかった、という批判があります。(最近もこんなことは言われているんでしょうか?)
 実際には、江戸では人の屎尿は上質な肥料として取引されていたので、下水に流すなんてもったいないことは出来なかったというのが本当のところですが、これは自然の理にもかなっていました。
 植物の生育には水や二酸化炭素、日光などの他にも、窒素、リンなどの元素が必要です。畑で作物を育てて、都市に出荷しているだけでは、これらの元素が土中から減ってしまい、土が痩せてしまいます。屎尿には窒素やリンが多く含まれていますから、消費地である江戸からこれを集めて肥料として畑に戻す、というのは合理的なやりかたです。江戸の人たちの面白いところは、自然の理に乗っ取った資源の循環を経済活動という人の都合にうまく合わせてしまっている、というところでしょう。おかげで幕府としては、屎尿処理に関してほとんど何もする必要がなくなってしまいました。時代が下り、肥料としての需要が増えるにつれ、逆に供給不足から価格の高騰を招いてしまう、という事態まで起こっていたりします。

 このように下水道を作って屎尿を川や海に流してしまうというのは、資源的に見てももったいない行為です。それだけではなく、窒素やリンは水系の富栄養化の原因になりますから、長い間続ければ、土壌は痩せ、海や川は汚染されるという最悪の結果を招く事になります。

 もちろん、下肥の利用は、寄生虫の問題など、衛生面に問題があることは確かです。しかし、環境に対する負荷や、建築と運用にかかるコストまで考え合わせると、下水道を作らなかった事がそれほど非難に値するとはとても思えません。
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